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ムソルグスキー

軍人、公務員、作曲家

名前
モデースト・ペトローヴィチ・ムーソルグスキイ
Модест Петрович Мусоргский
Modest Petrovich Musorgsky
愛称
ムソリャーニン / ムーシニカ / モディニカ(モヂィニカ) / モデャ(モヂャ)
Мусорянинъ / Мусинька / Модинька / Модя
Musoryanin' / Musin'ka / Modin'ka / Modya
生誕
1839年03月09日(西暦1839年03月21日)
カーレヴォ村(село Карево)
1881年03月16日(西暦1881年03月28日)現地時間5:00
ペテルブルクのニコラーエフスキイ軍事病院(Николаевский военный госпиталь)

住所の変遷

今のところ、住所に関して「当時の名称」と「現代の名称」という観点が抜け気味です。 基本的には現代名称を書くつもり。

address同居人等参考

[] []
1863.秋1865.夏 Санкт-Петербург, набережная канала Грибоедова, дом 70
サンクト=ペテルブルク, グリボエードフ運河岸通り, 70番
"コンミューン" [family-history.ru] []
1865.夏1867.11 мыза Минкино = Ленинградская область, Лужский район, деревня Каменка
ミーンキノ荘園 = レニングラード州, ルージスキー地区, カメンカ村
兄フィラレート家 [М.П.М. в Минкино. Новое к биографии комп] [enclo.lenobl.ru] [地図]
現在はカメンカ村になっている。
1867?1871? Санкт-Петербург, Инженерная улица, дом 4 "Инженерный замок"
サンクト=ペテルブルク, インジェネルナヤ通り, 4番 "工兵局"
オポチーニン家 工兵局の中に住居があったとのこと
1868.夏1868.夏 России, Тула, Шилово
トゥーラ県シーロヴォ
兄フィラレート家 モスクワの南南東300km
1871.08
1871.09.01
1872.08
1872.秋
Санкт-Петербург, улица Пестеля, дом 11
サンクト=ペテルブルク, ペスチェリャ通り, 11番
NARK [family-history.ru] [encspb.ru]
1872.秋1875.06 Санкт-Петербург, Шпалерная улица, дом 6, Ф-220
サンクト=ペテルブルク, シュパレルナヤ通り 6番, 正面220号室
[encspb.ru] []
キュイーも同じ建物に住んでいた。
1874年秋にAAGKが隣部屋に。
1875.061875.07
AAGK [] []
AAGKが借りた部屋
1875.07 Васильевский остров, угол 5-й линии и Бугского переулка, дом 8/1.
ヴァシーリイ島,
ナウーモフ家 [] []
1879.07.01 (Санкт-Петербург, Петергоф)
(ペテルゴーフ(ペトロドヴォレ-ツ))
[] []
レオーノヴァの別荘
1881.02.131881.03.16 Санкт-Петербург, Суворовский проспект, дом 63
サンクト=ペテルブルク, スヴォロフスキー大通り, 63番
[family-history.ru]
ニコラーエフスキイ軍事病院

Мусоргский в ПетербургеАдреса Мусоргского в Петербурге и окрестностях に詳しい。ただしソビエト連邦時代の本なので、現代住所情報が古い。

死後

死亡記事

Газете «Голосъ» (新聞「Voice」)掲載広告 (出典:А.А. Орлова "Мусоргский в Петербурге")

МОДЕСТ ПЕТРОВИЧ МУСОРГСКИЙ
скончался сего 16-го марта. Панихиды имеют быть в церкви Николаевского военного госпиталя на Песках, в 1 час пополудни и 8 часов вечера. Вынос тела в Александро-Невскую лавру и погребение в среду 18 марта, в 9½ часов.

モデースト・ペトローヴィチ・ムーソルグスキイ
がこの3月16日に死去した. パニヒダはペスキにあるニコラーエフスキイ軍事病院の教会で, 午後1時と夜8時にある予定. 3月18日水曜日, 9時半にアレクサーンドル=ネーフスキイ大修道院に出棺及び埋葬[葬式].

出典には、サンクト=ペテルブルクの全ての新聞が追悼文を掲載し、特に газете «Голос» は2日間に渡り上記広告を掲載した、と記載されている。朝5時に亡くなって、当日の新聞に間に合うのかどうかわからないが、16,17,18日のうち2日間掲載されたものと思われる。
死亡翌日 3月17日の同新聞 («Голосъ» 17 марта 1881, №76) にはスターソフが "Некрологъ М. П. Мусоргскаго" という割と長いネクロローグを書いている。

アレクサーンドル=ネーフスキイ大修道院のチーフヴィン墓地にある。 地上部の記念碑=墓碑は仲間の寄付によって建立され、1885年11月27日に除幕式が行われた。 墓碑は建築家 ボゴモーロフ (Иван Семёнович Богомолов) によるデザインで、彫刻家 ギーンツブルグ (Илья Яковлевич Гинцбург) の手によるもの。 今はないが、元々は ボゴモーロフ による金属製の囲い格子があった(現在は土台そのものがなく墓碑のみになっているように見える)。格子は上部が楽譜になっている。


I.E.レーピンは有名なMPM肖像画の報酬をP.M.トレチャコーフから受け取らず、寄付した。NARKも同調。 A.K.リャードフはMPM作品の演奏会を開き、その収益を寄付。 A.K.グラズノーフは「弦楽四重奏曲 第1番」で1885年に受賞した「グリンカ賞」の賞金を全額寄付したらしい。
(グラズノーフについてだけは、寄付したのは間違いなさそうであるが、明確にグリンカ賞の賞金であるという資料が見つけられていない。スターソフの著作 "Памяти Мусоргскаго"(1885)ではなぜかグラズノーフの寄付について触れていないし、スターソフから情報を得て書かれたと思われる А.М. Керзин の著作(1906)では、交響曲第1番で貰うことになっていたお金を、ということになっていて、グリンカ賞云々は記載されていない。)

墓碑正面、彫刻された楽譜

最上部はココシュニクに "МУСОРГСКОМУ." の文字。
囲まれるように六光星(六芒星ではない)、植物装飾に囲まれたムソルグスキーの胸像。
中程両脇に柱頭を従え、楽譜。下部に鍵盤。
一番右下に何か文字が2行彫ってある。墓地の管理番号か?

楽譜は、 歌劇「ボリース・ゴドゥノーフ」第1幕第1場 "夜. チュードフ修道院の一室" (Действіе первое, Картина I. "Ночь. Келья въ Чудовомъ монастырѣ.")、 修道僧ピーメン(Пимен; Bass)がランプの前でロシア年代記を書いている場面で歌う曲 (歌詞参考:Опера "Борис Годунов")で、 具体的には(全幕通番の)練習番号39の14-17小節 = 練習番号40の前4小節 及びアウフタクトである。

МУСОРГСКОМУ.

да вѣдаютъ потомки православныхъ
земли родной минувшую судьбу!

ムーソルグスキイに.

そうして正教徒の子孫達は知るだろう
故郷の地の過去の運命を!


上記のようにどちらも音符の長さが明らかに間違っていたり、小節線が曖昧だったりする。
この範囲では拍子変更はなく4/4のまま進行。アウフタクトのAは4分音符、次のDは付点8分、その下の和音(Fis,D,A)は2分音符が正しい。
本来の記譜を以下に示す。→MIDIファイル(1.3KB)

墓碑側面及び裏面

両側面上部には大きな十字架(正教の十字架ではない)。その下にはガルトマン作品にも見られるロシア的な装飾。

МОДЕСТЪ ПЕТРОВИЧЪ
МУСОРГСКІЙ.

モデースト ペトローヴィチ
ムーソルグスキイ

両側面一番下には石のプレートがあり、ムソルグスキーの主要作品の名前が刻まれている(らしい。まだ写真でも詳細には見たことがない)。

裏面には生没年が記載されている(らしい。まだ写真でも見たことがない)。

род. 16 марта 1839.
сконч. 16 марта 1881.

1839年3月16日 生.
1881年3月16日 没.

この生年は間違っている。ムソルグスキー自身が間違って認識していたらしい。
このあたりは 森田稔「ロシア音楽の魅力(ユーラシア選書13)」の「II-1 ムーソルグスキイとは何者か」(p.69-75) 「II-2 生い立ち」(p.76-83) を参照:

彼は三月九日の生まれであったが、自分では三月十六日生まれと信じていた。
(中略)
実際に、彼の死後数十年にわたって、そのように信じられていたのである。
前記のノーヴィコフはこの点についても古文書の記録に遡って検討していて、作曲家が子供の頃から自分の「名の日」を三月十六日に祝っていたので、それを自分の誕生日と思い込んでいたのだと結論付けている。
彼が誕生日を間違えて記憶していたのには、理由があった。 ムーソルグスキイ家では最初に生まれた子供たちが二人続けて幼少時に病死していたので、悪魔に呪われていると怖れた両親は、悪魔から子供を隠すためにロシア的でない名前を付けたり、誕生日を偽ったりしていたのである。

なお、「ノーヴィコフ」氏の調査結果原本は Н.С.Новиков「"У истоков великой музыки" Поиски и находки на родине М. П. Мусоргского.」 (増補版:Молитва Мусоргского) である。

記念(名称)物

address同居人参考
Санкт-Петербург, Лермонтовский проспект, дом 54
サンクト=ペテルブルク, レールモントフスキー大通り, 54番
[encspb.ru (1) (2) (3)]

映画

"Мусоргский" (1950)

"Мусоргский" (Г. Л. Рошаль; Ленфильм; 1950.11.27); 12巻3285m 122分 (日本初映版); カラー
1950年度スターリン賞 第1位 (KsvRでは証拠未発見)
1951年 第4回カンヌ映画祭 美術賞 (Н. Г. Суворов & А. С. Векслер)
1951年11月8日 文部省 教育映画に選定

伝記映画。
1957年、スターソフと5人組が集合する場面から始まり、「ボリス」という素材を得て作曲、1974年の上演成功までを描く。
よって、ムソルグスキーの子供時代であるとか、酒びたりになる場面などはない。
ガルトマンも出てこないし、(時期的に当然)「展覧会の絵」も全く触れられていない。
「ソ連」時代の、体制の影響下にある作品であるということを念頭に置きつつ、 19世紀ロシアの雰囲気をカラーで感じられる、ありがたい映画である。

ムソルグスキー役は、(実在人物の配役に対して架空人物の配役の例を挙げるのは変だが…)ホームズにおけるジェレミー・ブレットポワロにおけるデヴィッド・スーシェと同じ位しっくり来た(もう少し徐々に太っていった方がそれらしかったけれども)。 他のキャストも、(ボロディン以外は)結構本人らしく仕上がっていると思う。

ロシアからのDVD個人輸入は難しい(メディアものは注文確定前に「それは輸出できません」になったりする)。
著作権は切れていると思うので、見たい人はYouTubeで(勿論ロシア語&字幕なし)。

日本国内上映 (1951, 1952)

邦題は「夜明け ムソルグスキー物語」。配給は北星映画。
"展覧会の絵"の展覧会 さん(メニュー "研究室"→"夜明け")に詳しい。

当時のスバル座は欧米映画ロードショー館だった模様。
字幕入りだったのだろうか?(当時の常識を調べればわかるのだろうけれども)

「夜明け ムソルグスキー物語」上映スケジュール
期間映画館集計週入場人員興行収入
初映 1951.12.07-1951.12.26丸の内スバル座 [No.74] 12.07-12.13206441222017
12.14-12.20224511218146
12.21-12.26215241104988
新版1952.04.10-1952.04.15銀座コニー劇場04.10-04.155893265185
1952.04.10-1952.04.15丸の内名画座04.10-04.157922369470
1952.04.10-神田シネマパレスn/a
1952.04.11(10?)-1952.04.16テアトルハイツ(渋谷)04.10-04.168038379205
1952.04.11-1952.04.16新宿ヒカリ座04.11-04.1611866537760
1952.04.11-荻窪文化劇場n/a
1952.04.15-人世坐(池袋)n/a
1952.04.20-横浜国際劇場n/a
※「キネマ旬報」各種と下記新聞情報から。 (映画館名参考: 中原行夫の部屋 / 昭和32年の映画館

朝日新聞 (S26)1951.11.26夕(二)広告

スバル座
シベリヤ物語の感動を越える!
夜明け; ムソルグスキー物語
147枚のアンケート揃って絶讃志賀直哉氏も福島慶子夫人も野村光一氏も推薦!
長与善郎氏(作家); 感心したのは先ず俳優のことごとく実に立派な事。 (その点ではロシアはたしかに世界一でどこの国も及ばない) 次に音楽のよさ。 殊に声楽の一人々々の素晴しさ。 少し大袈裟にいえばシヤリアピン程度の人はザラにいるようにさえ思える。 ムソルグスキーが「蚤の唄」を作る処はよかった。
今年のクリスマスの話題はこの映画から; 七日より

朝日新聞 (S26)1951.12.06夕(四)広告

開場5周年記念; スバル座
明日より; ロードショウ
北星映画配給; レンフィルム作品
夜明け; ムソルグスキー物語
総天然色; 50年スターリン賞受賞; 51年カンヌ映画祭受賞
作家 長与善郎氏; 感心したのは先ず俳優のことごとく実に立派なこと。 (その点ではロシヤはたしかに世界一で、どこの国も及ばない) 次に音楽のよさ。 殊に声楽の一人一人のすばらしさ。 少しおおげさにいえばシャリアピン程度の人はザラにいるようにさえ思える。 ムソルグスキーが「蚤の唄」をつくるところはよかった。
完訳シナリオ・夜明け; 「ソヴェト映画」12月号に掲載; ・発売中・
1回目120円・2回目150円; 学生・勤労者120円団体80
上映時間 11.30 2.05 4.40 7.20

今夕 夜明け 前夜祭
六時卅分; 二〇〇円
■映画と2大合唱団競演
独唱戸田政子・伴奏山口とし子★ビクター女声合唱団 指揮秋山日出夫・独唱荒木宏明★東京リーダー・ターフェル・フェライン
■曲目・舞踏への誘い・赤いサラファン・悲歌追分・ヴォルガの船歌・拳骨節・人生��

朝日新聞 (S26)1951.12.15夕(二)記事: 新映画

表情豊かな唄; 夜明け…ソ連映画
 ムソルグスキーの音楽の一つの特色は、当時の民衆の苦難と反抗を音楽に表現しようとしたことである。 この映画は、この点を画面に強く押し出して、彼が国民歌劇「ボリス・ゴドノフ」を完成上演するまでの経過を描いている。
 前半は筋の運びがなだらかでなく、音楽のために劇の流れが妨げられたり、また音楽をせっかく楽しんでいると急に場面が変ったりしてまごつくが、後半、音楽批評家スターソフ(チェルカソフ)が新しい時代の国民音楽を支持して、保守派の音楽家たちを攻撃するあたりからは、さすがに迫力があって、最後まで引きつけられる。
 この映画の魅力がムソルグスキーの音楽であることはいうまでもないが、出てくる男声のすばらしさには圧倒される。 ムソルグスキーにふんするボリソフの歌は表情が豊かだ。 (呂)=26日まで、スバル座、一五〇円、学生一二〇円。
[写真] ●ア・ボリソフ●ヴェ・モロゾフ
[略]

読売新聞 (S27)1952.04.02都民版(四)広告

10日より
待望の一般公開!モスクワより新版到着
総天然色音樂映画
夜明け; ムソルグスキー物語
ソ連・レンフィルム
1950年スターリン賞; 1951年カンヌ映画賞
職場に・家庭に・街頭に・大反響をよんだ世紀の傑作!!
北星映画配給; ソ連映画輸出協会提供

民族的底力; 津村秀夫氏評「ソ連的」
色彩とは別に、厳然としたロシア的な力、その芸術的伝統のたくましい力が、地底から、響いてくるような感じがする。 やはり音楽的な民族である。 音楽愛好者には一見をすすめたい力作である。
歌唱のすばらしさ; 読売新聞評 この作品はムソルグスキーの伝記映画であり、オペラ「ボリス・ゴドウノフ」の記録映画でもある。 音楽はムソルグスキーの名作名篇が演奏されるが特に印象に残るのは男声の歌のよさにあって、あの腹の底からよく響く充実した声量と、無理のない自然の発声とは到底真似のできないよさがある。
際立つ色彩の美しさ; 毎日新聞評
人民を主題にして曲を作ることに努力したこの音楽家の特徴があらゆる角度から写されていて、それがこの映画の特徴にもなっている。 ムソルグスキー最高の歌劇といわれる「ボリス・ゴドウノフ」作曲のシーンは素晴しい効果である。 色彩も、戸外の部分が際立って美しい。

読売新聞 (S27)1952.04.09夕(四)広告

ソ連映画輸出協会提供; 北星映画 配給
新版到着!
総天然色; 夜明け; ムソルグスキー物語; ソ連 レンフィルム
文部省認定; 今度こそお見逃しなきよう

明日より 一齊封切
職場に家庭に街頭に異例の大反響をよんだ世紀の音楽映画
ロシヤ国民音楽を確立したムソルグスキーと五人組の美しくも力強い友情、世界の至宝
歌劇「ボリス・ゴドノフ」をはじめ歌曲、ピアノ曲、交響曲、オペラ等の圧倒的魅力!!
スターリン第一賞(1950年); カンヌ映画賞(1951年)

—10日より—
銀座 コニー; 丸の内 名画座; シネマ・パレス
—11日より—
新宿 ヒカリ座; テアトルハイツ; 荻窪文化
15日より 池袋人世坐
20日より 横浜国際

山びこ学校; 八木プロ日教組共同作品; 5月大公開

"Модест из рода Мусоргских" (1989)

"Модест из рода Мусоргских" (В.Ф.Окунцов; Лентелефильм; 1989) 67分47秒; カラー

ドキュメンタリー映画。
英語にすれば "Modest from Mussorgsky family"、
日本語ならば「ムソルグスキー家[一族][-出身]のモデスト」「ムソルグスキー家からモデストがやって来た」という感じか。

冒頭いきなりスヴェトラーノフの指揮映像の[P1]で始まる。ラスト前も同じく指揮映像で[Kiev](ラストは「モスクワ河の夜明け」)。
それ以外はBGMで[Catacombae]が登場(全編、BGMはムソルグスキーの音楽である)。